人が幸せかどうかは、神が共にいるかどうかだ。

俺だっていつも正しい判断をするわけではない。

しかし、俺が間違った判断を実行してる時には神がそれが間違いだと示唆して熟考するように俺に促す。

こうして、俺は過去の決断を覆し、行動を改める。

そう、俺にはいつも神が共にいる。

これ、神が共にいない人は。

例えば、大きなことで言えば、大地震が起きて家が倒れて、家族が死んだり、小さな不幸で言えば、家族の誰かが交通事故で死んで、天涯孤独の身になったりして、お金があっても、満たされない心がある。

神と共に歩んでたら、必然的に、モーセの戒律は守るように導かれる。

そう、俺がモーセの戒律に拘ってるが、俺は別にクリスチャンでもないし、イスラム教徒でもない。

そう、神が俺を聖書に導いた。

そして、今の時代は日本では聖書は古本でも売れない。

つまり、全く捨てるのでない限り、聖書は手放せない。

こうして、聖書とモーセの戒律は俺の固有の個性になった。

このように、神を信じてれば、逐次、神が導く。

この神の導きがないと、人は生きることに迷うだろう?

「好き勝手生きれば良い」というのは、社会や世間に従う必要はないということだ。

でも、神が悔い改めの機会を与えてくれたら、ちゃんと悔い改めないと、とんでもない不幸に遭う。

ここが分からず、「讃美歌なんか流行らない、神さまなんていないから」なんて歌ってると本当に神は寄り付かない。

まあ、讃美歌の起源を遡れば分かるが、讃美歌は、ダビデの詩編に由来してることが多い。

ダビデのカギを持っていないなら、詩編の讃美歌より優れた神への賛美は口にできないだろう。

ちゃんと、聖書を読めよ。

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